後續戰略的幾點說明[第1頁/共2頁]
這條我不太佩服,正如汗青上所說,日軍前腳撤退,明朝聯軍便當即構造雄師反擊,蔚山之戰,泗川之戰,順天之戰便是證明,底子不會給日軍留偶然候構築工事。
(大明の大軍が襲來したら餘自ら馬廻衆を引き連れて渡海し打ち破り、大明まで進撃しよう。)
這句話是秀吉對將士的鼓勵,意義是到時候他會親身帶領馬廻眾渡海作戰,當然,以當時的身材狀況來看,不過是嘴上說說罷了。
眼看著影島海戰就要結束了,接下來將是慶長之役的轉折點“稷山之戰”,雖說借用了汗青上的稱呼,但詳細顛末絕對分歧,大師就彆急著百度了。
『島津家文書』によると、総大將は石田三成と福島正則、増田長盛を充てることを計畫していたよう
(それが済んだら仕置きの城の守りを固め、在番の城主を決めてそれ以外は帰國せよ。)
『慶長三年蒲月二十二日付朱印狀(鍋島家文書)』「度々仰せ遣わされ候ごとく、來年大人數遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候
綜上,熊仔以為稷山過後日軍並未全線敗退,而是計謀後撤(當時明軍的第二波救兵尚未到達,對日軍造不成威脅),以待療養厥後年再度打擊,如此持續下去,已達到疲敵的結果。
ここで、慶長の役の作戦の勝利を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計畫し、さらに明?朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で歇息をとっていた
我查了些質料,總結了以下兩個能夠的啟事。
附原文:
不過恪守城池,輪換返國療養倒是有些蹤跡可尋,按照慶長二年仲春二十一日秀吉頒給立花宗茂的朱印狀來看,確是出於療攝生息的考慮。
第二,也是本書中我籌辦采取的觀點,秀吉如此乃是疲敵之計,詳細論證見下:
汗青上,稷山之戰過後日軍全線後撤,有人不睬解,眼看著打到漢城了,為何臨陣畏縮呢?
日本軍を1599年に再度朝鮮に調派する號令を発します。(很較著,是打算兩年後再度打擊,以勞敵師)
『慶長三年三月十三日付朱印狀(立花家文書)』「來年は禦人數指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり
明軍に大勝した日本軍は、築城を完成させ防衛體製を強化すると再度の出兵に備えて半數以上の軍勢が日本本土に帰還し2も達成されました。(此戰過後,日軍打算補葺城池,將半數兵力撤回本土)
(全羅道を殘さず悉く成敗し、忠清道や京畿道もなるべく攻略せよ。)